2021年6月23日(水)の「英雄たちの選択」は「徳川慶喜 パリ万博大作戦 600万ドルを確保せよ」という回でした。
パリ万博に幕府が使節団が行っていたことは知っていましたが、その裏にこんなに色々な話があったとは全く知りませんでした。
英雄たちの選択 毎週水曜夜8時 BSプレミアム
1867年4月から10月に行われたパリ万国博覧会に徳川慶喜は当時15歳の弟の徳川昭武(あきたけ)も派遣して、日本の代表として国際舞台に送り込みました。
ナポレオン3世に謁見したり、各国の代表と記念撮影をしたり、昭武はとても厚遇されます。
しかし本当に幕府使節団は薩摩藩や佐賀藩も出展していることを知らなかったのでしょうか。
しかも薩摩藩は幕府使節団よりも数か月早く現地に入り準備をしていたそうです。
幕府使節団は薩摩藩側に抗議し話し合いをしますが、そこで致命的なミスを犯します。
「グルーベン太守薩摩」と薩摩藩が名乗ることを認めたそうです。
これ「日本薩摩太守政府」という名称になるのですが、幕府側は「グルーベン」を「藩」だと認識していたそうです。
当然政府という名称を名乗る薩摩藩をフランスは、日本において徳川幕府と薩摩藩は同等であるという印象を抱きました。
幕府使節団には通訳としてシーボルトの息子のアレクサンダー・シーボルトが同行していたが、元はイギリス公使館の人間であり、イギリスと関係が深かった薩摩藩とつながっていたのではと言われているそうです。
この薩摩藩の妨害もあって幕府はフランスから600万ドルの円借款契約を結ぶことが困難になったようです。
もともとこの円借款は慶喜がフランス公使と勧めていたもので、これでフランス製の武器を買って近代的な武装をしようともくろんでいたようです。
しかしこの契約には生糸の独占販売権も含まれており、対等な交渉とは言い難かったようです。
結局、その後色々ありましたが、結局この話は頓挫してしまいます。
というのもそうこうするうちに、徳川幕府は大政奉還してしまうのです!
大政奉還は1867年11月9日です。
パリ万博と同じ年なんです。
そうだったんですか!そこに気づくの遅かったです。
すごい年です。
慶喜は最後まで色んなことを考えていたけれど、物事が思った以上に早く進んでしまったということなんでしょうか。
まさしくジェットコースターのような慶喜の周りでの出来事です。
色んなことを知ってくるとその重なりに怖くなるぐらいです。
このパリ万博の一件では、薩摩藩が一枚も二枚も上手だったということですね。
ちなみに薩摩藩は独自に勲章まで作ってナポレオン3世に渡していたそうです。
「薩摩琉球国勲章」という名前がデザインされていて、真ん中には薩摩藩の藩主、島津家の家紋「丸に十文字」がデザインされていました。
もうすごいの一言です。
今なら31日間無料体験。