2022年5月14日の「ブラタモリ」は「東京湾~海の玄関口・東京湾 原点は川にあり?~」でした。
以下、感想とネタバレです。
撮影があった日はとてもいい天気ですね。
船が好きなタモリさんはなんだか気持ちがよさそうです。
毎回船でもいいと言っていますね。
冒頭シーンは隅田川だそうです。
ここでタモテバコが登場して、今日のお題が発表になりました。
「海の玄関口・東京湾 原点は川にあり?」
タモリさんはまったくピンときていません。
案内役の法政大学特任教授(建築史)の陣内秀信さんが登場して、椅子に座ってお話を始めました。
気持ちがよさそうです。
タモリさんは早速「街に入るときは、海から入るのが表玄関で、飛行機から入るのは裏玄関、都市に入るときは海から入らなければならない」と持論を展開します。
世界には首都が内陸にあり、海の玄関と呼ばれる港と近い場所はないそうです(特にヨーロッパ)ですが、日本の首都である東京は港湾都市で、海と首都が近い距離にあります。
東京にとって大事な東京湾ですが、その原点は川にありますと陣内先生が水を向けるとタモリさんの反応はいまいちでした。
船は浅草辺りにやってきます。
江戸時代より前、海岸線は浅草付近にあったと考えられていて、今よりも7キロも上流が海岸だったということになります。
江戸時代に書かれた絵を見ながら陣内先生が説明を続けます。
江戸時代になると、浅草辺りは隅田川(大川)の土砂で埋まっていき、海の玄関口は佃島辺りになりました。
するとタモリさんが日本橋の辺りにも船があることに気づきます。
これは江戸中に掘り割りが巡らされていて、海からつながる流通網がつくられていたためだそうです。
それは江戸城そばまで張り巡らされていたことから
タモリさん「全体が港ですね」
すると船がちょうど日本橋川の辺りに差し掛かってきました。
陣内先生「一か所に集中したのではなく分散したというのが面白いですね」
船は佃島にやってきました。
今は背の高いビルがそびえたっていますね。
タモリさん「ここで生まれたのが佃煮です」
野口アナが驚きました。
船は佃島を抜けて東京湾に入りました。
お台場が見えました。
陣内先生が元はどんな場所だったかと聞かれ、砲台とタモリさんが答えました。
なんと今でも台場がそのまま残っています!
台場とは幕末に外国船の侵入を防ぐためにつくられた砲台です。
6基の台場が1年4か月という短い期間の間に作られました。
タモリさん「海が浅いから早くできたわけですよね」
すると幕末に描かれた測量図がでてきました。
東京湾の沿岸部分は川からの土砂がたまってできた干潟がたくさんありました。
台場は干潟の先端に作られています。
干潟が広がり遠浅だった東京湾が玄関口になったことに川が関係しているそうです。
陣内先生「この遠浅の海は台場を作るには最適ですが、港としてはどうですか?」
タモリさん「最悪ですね」
陣内先生「大きな船は入れませんもんね」
しかしタモリさんは測量図に川があることに気づきました。
これは澪筋(みおすじ)といって、海や川の中で船が通ることができる深い部分のことを指します。
一番太い川を本澪(ほんみお)といい、墨田川の延長上にあります。
最初に見た江戸時代に書かれた絵をよく見ると船が連なっている様子が描かれていました。
タモリさん、これにはびっくりしていました。
船からちょうどその辺りを通っている船が見えました。
本澪と呼ばれる深い部分は今でも航路になっているそうです。
すごい歴史を感じます。
隅田川の川筋を利用することで、遠浅の海という一見港には不向きな条件を克服することができました。
タモリさん「川のおかげだ!だんだんわかってきた」
しかし明治時代になると東京は船の大型化に対応しきれなくなります。
代わりに大型船の寄港地になったのが横浜でした。
明治の中頃には日本の貿易の7割を占めるほどに成長したそうです。
ではどのようにして東京の港は挽回していったのかということを東京側をタモリさん、横浜側の立場を野口さんが代弁することになりました。
東京側のタモリさんは水深が浅いから大きな港を作りたいというと、野口さんはそれは食い止めたいと答えます。
実際に横浜は東京に港ができることに猛反対したそうです。
そこで横浜に反対されずに港をつくるための作戦はどのようなものだったのかとタモリさんにふると
タモリさん「これは港じゃない、川です」
ボードが登場して、昭和39年第一期隅田川口改良工事とあります。
タモリさん「港じゃない、河口を改良する」
東京湾の河口としてではなく、あくまで隅田川の河口の整備として工事に着手しました。
まず澪筋を整備して、その土砂で日の出や勝どき、芝浦周辺を埋め立てました。
その後も明治44年、大正11年と澪筋の整備と埋め立てを進めました。
確かに現在の東京湾の姿にどんどん近づいてきています。
あの姿の最初が明治時代から始まっていたというのに驚きます。
すると昭和6年から進められた工事は「東京港修築工事」とありました。
タモリさん「ついに正体を現した!」
これは関東大震災があり復興のため物資や資材搬入のために港の整備が急務になったそうで、日の出ふ頭が開港したそうです。
そうして昭和16年日の出ふ頭を始まりとした東京港開港となりました。
その当時の地図に現在の姿を合わせるとものすごく範囲が拡大しています。
何を基準として港が広がっていったかというと、隅田川の澪筋が基点となって港が広がっていった、それと当時に街も広がっていったということです。
その時走っている船もちょうど本澪のところだそうです。
陣内先生「東京の海の玄関口・東京港の原点に川があるということをご理解いただけましたか?」
タモリさん「ようやく分かりました」
草彅くん「ここまで見て来たのは江戸、東京の海の玄関口と川の関係でしたが、ここからは東京湾全体に注目していきますよ」
東京湾の成り立ちにも川が深く関係しているそうです。
続いてタモリさんが向かったのは東京国際クルーズターミナルでした。
かなり東京湾奥深い場所です。
2020年に東京港の新たな顔としてオープンした客船ターミナルです。
タモリさんが来た時、ちょうど客船が出航する時でした。
すると飛行機も着陸するのが遠くに見えました。
タモリさん「飛行機と船だよ」
テロップで飛行機には「裏」船には「表」と出ています。
タモリさん「あっ先生!」
ここで産業記述総合研究所 地質調査総合センターの高橋雅紀先生が登場しました。
ブラタモリには6度目の登場だそうです。
ボードが出てきて利根川と鬼怒川の表示があります。
利根川と鬼怒川は途中で一つの河川になり、銚子方向に流れています。
するともう一つ、江戸時代より前のボードが出てきました。
利根川と鬼怒川が合流せずに、利根川は東京湾に流れています。
タモリさん「人工的につないじゃったんだ 利根川がたびたび氾濫を起こすわけ 利根川を鬼怒川に流した 江戸の初期に」
利根川の下流にあった江戸の街を守るため、山を削り川の流れを変えたのです。
すごい大工事です!
江戸時代より前の二つの河川が流れているボードのめくると、千葉県の形をしたチーバくんが見えました。
野口アナ、ちゃんとご存じでしたね。
高橋先生「チーバ君の鼻のあたり、ちょうど東京都と埼玉県と千葉県の県境ですが、この鼻先を削って利根川の流れを変えてしまった」
高橋先生「このことを解き明かすためには2万年前までさかのぼって考える必要があります」
野口アナ「2万年前・・・」
すると高橋先生お手製の模型が登場しました。
衣装ボックスのような入れ物の中に立体になった関東平野の模型があり利根川と鬼怒川が赤い線で描かれています。
そして青い水が海水のかわりに入っており、入れ物にホースがつながっており、その先にはバケツが見えました。
すると高橋先生は2万年前まで遡りますと言うと、じわじわと海面が下がっていきました。
2万年前の東京湾は今よりも海面が約120m低かったそうです。
すると干上がった東京の部分に流れていた川の名前を聞かれたタモリさんは「古東京川(ことうきょうがわ)」と答えました。
高橋先生も感心していましたが、本当にすごいです。
2万年前は海面が低かったのですが、その後海面が上昇し6000年前の縄文時代がピークだったそうです。
現在の栃木県と群馬県まで海が入ってきていたそうです。
先生の手作り模型を見ていると千葉県はありますが、相当細くなっています。
東京は水没してます。。。
それでも二つの河川は山に挟まれ交わることはありません。
その後水面は下がっていき、利根川の土砂が東京湾に溜まっていき、海は浅くなっていきました。
そこで高橋ん先生がタモリさんに質問します。
「もし江戸時代にチーバくんの鼻先を削らず、利根川の流れが変わらなかったとしたら、東京湾はどのようになっていたと思われますか?」
タモリさん「どんどんと土砂が堆積して、浅瀬ばっかり 干潟ばっかり (港として)利用できないような海になった」
さすが、タモリさん正解です。
江戸時代より前の地図と現在の地図を見比べると、江戸時代には鬼怒川の先にあった香取の海が、現在の地図だと、どんどん土砂が溜まってなくなっていってしまって、唯一残ったのが霞ヶ浦でした。
利根川の流れを変えることで東京湾を守ったということなんですね。
この辺りですっかり景色は夕方になってきました。
すると今度は高橋先生から陣内先生にスイッチして、東京湾全体の海の玄関口はどこにあるかとタモリさんに質問しました。
タモリさん「せまい意味でいうと、この辺ですかね」
ボードを指さした場所は神奈川県横須賀の走水(はしりみず)と千葉県の富津の間でした。
それも正解で、ここが重要な場所ということでした。
タモリさん「行きましょう行きましょう、富津行ってないんですよ」
これから行くんでしょうか?
もう夕方の景色ですけど。
画面が変わって富津岬の先端にやってきました。
流石に別日でしたね。
この日もお天気がいいです。
目の前に変わった形の展望台が出てきました。
すごい絶景が広がっています。
わずが7キロ先に走水があるそうです。
どうしてここが重要なのかと陣内先生に聞かれ、思案するタモリさんでしたが
「防波堤の役割もしていますよね」
陣内先生「そうなんですよ」
タモリさん「波の高さが全然違う」
野口アナ「えっ」
富津湾をはさんだ内陸側の北は波が穏やかで、南のほうが荒い様子がよく分かります。
ここは天然の防波堤の役割を果たしているそうです。
ここで先生が変わります。
なぎさ総合研究所 所長の宇多高明さんです。
およそ50年に渡って日本の海岸について研究しているそうです。
宇多さんがタモリさんにどういう地形だと思うかと聞くと、砂嘴(さし)と答えました。
砂嘴とは鳥のくちばしの様に海に突き出て砂が堆積した地形のことを言います。
普通は鳥のくちばしのように曲がっていますが、富津岬は真っすぐ突き出た珍しい地形をしています。
これは波の影響で、少しづつ少しづつ砂が寄せられてきているそうです。
宇多さんはまるで平泳ぎをするときに手を合わせた時の先端のような感じと言いますが、タモリさんは最近の平泳ぎは手の動きがちょっと違うと突っ込んでいました。
ここからは絵を使って説明してくれます。
陸の先端には砂があり、両側から同じぐらいの力で波がくると、その砂が海にむかって広がっていきます。
でも両端が広がるので真ん中はすこしくぼんだような形になります。
それがもっと進むと両端がつながってしまいます。
でも真ん中に池が残ってしまうそうです。
タモリさん「こういう伊豆地形ありますよね?伊豆にこういうのあるんですよ」
宇多さん「伊豆のどこかな」
タモリさん「大瀬崎(おせざき)」
大瀬崎の写真が出てきましたが、確かに先端に池があります。
タモリさんは絵の先を見たくて、隠していた部分をめくります。
するとくっついた先端がどんどん細長くなりますが、池が残ったままです。
富津岬にそんなものがあるのかと言われ、周りを見渡すと、松の木が生えていない場所がありました。
そこが池の場所だそうで、何年経ってもあのままだそうです。
太平洋から吹く南風と関東平野を通って東京湾へと吹いてくる北風がちょうど同じぐらいの強さで吹く場所が富津岬だそうです。
またその富津岬から約4キロのエリアには砂の溜まった浅い地形が広がっているそうです。
すると手を合わせて富津の形をしていました。
気に入ったんでしょうか?
すると先生が陣内先生に戻りました。
富津岬の地形を生かして明治以降に重要な施設が作られましたと話すと、タモリさんが海堡(かいほう)ですかと答えます。
海堡とは明治から大正にかけて海を埋め立ててつくられた東京湾への侵入を阻止するための3つの海上の砦のことでした。
そのうち第一海堡と第二海堡は富津岬から伸びる浅い地形を埋め立ててつくられました。
高橋先生が第二海堡に上陸させていただくと話すとタモリさん嬉しそうです。
海堡に行けるなんてテンション上がりますよね。
第二海堡は今はコンクリートで整えられた思ったよりも大きなものでした。
富津から船で40分かかったそうです。
ここに行くと海の玄関口と川の関係が分かるそうです。
ここでまた専門家が変わって少し緊張した面持ちで登場したのは元防衛大学校教授で工学博士の正垣孝晴さんでした。
コンクリートで固められた階段のような場所を登っていた途中で正垣さんがある場所を指しました。
それは高射砲(こうしゃほう)と言って太平洋戦争が始まった翌年に高い角度に打ち上げられる火砲で航空機攻撃のために用いられた場所だそうです。
軍事施設だが、相撲の土俵も作られたそうで、娯楽のために作られたそうです。
タモリさん「東京湾の中心で はっけよいを叫ぶ」
曲はもちろん平井堅さんがかかります。
すると丸い形をした場所が出てきました。
加農(カノン)砲といって、船を撃つための砲台があったそうです。
すると写真が登場して、実際にあった様子がよく分かります。
このような砲台が30ほど設置されていたそうです。
タモリさんたちがいる場所にある砲台は3層構造で大がかりなものだそうです。
一番上が射撃室、次が砲座、一番下が弾を上げるための機関室で、機関室は地下から掩蔽壕(えんぺいごう)が伸びていたそうです。
掩蔽壕とは敵からの攻撃を避けるため地下に作られた防空壕のことだそうです。
なんと実際に見ることができる場所があるそうです。
すると地面の下にレンガが見える場所がありました。
特別に降り立ちます。
するとちょうどみなさんの背の高さぐらいまでレンガがあって、空間は広くあるように感じます。
この掩蔽壕は第二海堡全体に張り巡らされていて、寝泊りできる施設もあったそうです。
するとレンガの色をみて白い部分と赤い部分があることにタモリさんは気づきました。
正垣さん曰く、元はすべて白く塗られていたそうです。
野口アナ「できるだけ明るくしたかった?」
正垣さんは同意して、上に土をかけて真っ暗だったので、できるだけ明るくして人が通っても認識できるようにする意図があったようです。
すると白く塗られた部分に近寄ったタモリさんは白の正体が漆喰だと気づきました。
それは周りがすべて海なので、湿度を下げる必要があったためだそうです。
タモリさん「土木遺産ですね」
正垣さん「そうなんです」
第二海堡は完全な軍事施設で日本の戦争の歴史を感じる場所でした。
ここで先生が陣内先生に戻りました。
ここで「東京湾の原点は川にあり?」というお題の意味を考えていきましょうと言われると、タモリさんはちょっと忘れていましたと、興奮しているそうです。
すると第二海堡のそばを大型船やタンカーが通っていく様子が映ります。
草彅くんが第二海堡は浅瀬を埋め立ててつくられたのに、どうして第二海堡のそばを通れるのかと問いかけます。
タモリさん「川だ、古東京川。そこの跡を通っている」
陣内先生「出ました、それそれ。すごいことですよね」
陣内先生もタモリさんがずばり当てるので、嬉しそうです。
東京湾には古東京川やその支流を流れていた場所が谷となって残っているのです。
第二海堡は水深10メートルですが、すぐそばには水深50メートルの場所があり、そこが航路になっているそうです。
タモリさんは地図を見ながら、いまだに澪筋を通っていること、川の跡が航路になっていると気づきました。
もし川がなかったという陣内先生の問いに、タモリさんは東京湾は浅瀬のままだから、もっと手前に玄関口を作ることになる、そうすると波の影響を受けるから大変だと話します。
すると陣内先生は古東京川がなかったらどうなるのかと聞くと、富津岬が伸びて東京湖になってしまうと答えました。
これも正解でした、本当にタモリさんは物知りですね。
今回のお題は最初さっぱりだったと言っていましたが、よく分かりましたとタモリさんは話します。
野口アナもこれからは東京湾をみて川を感じるようになりました、と答えると、やはり地形ってすごいなと感心するタモリさんでした。
エンディングでタモリさんと野口アナが天丼?を食べている写真がありました。
美味しそうでした。
次回も海から今度は横浜・川崎だそうです。
船好きなタモリさん、これも楽しそうですね。
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