英雄たちの選択 秀吉 毛利 鳥取城

英雄たちの選択 秀吉 毛利 鳥取城 テレビ

2022年11月2日(水)の「英雄たちの選択」「幻の一大決戦!秀吉VS毛利~真偽 鳥取城の戦い~」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。

城攻め名人豊臣秀吉の特に名高い城攻めは鳥取城をめぐる日本屈指の包囲戦でした。
今回はこの鳥取城攻めについてです。
秀吉は鳥取城の周りに12キロにも及ぶ付け城郡を作り、鳥取城を孤立させ兵糧攻めにした戦いでしたが、近年では秀吉はもっと大きなことを考えて戦いをしていたという見方がでてきています。
今回のゲストの千田先生もその説を唱える一人だそうです。

今回のゲスト
城郭考古学者 千田嘉博さん
作家 伊東潤さん
経済学者 飯田泰之さん

1580年時点で、機内を治めた織田にとって、北の上杉、東の武田、西の毛利が大きな敵でした。

千田先生、鳥取城へ行く!
・2021年に復元されたばかりの鳥取城大手門
・巻石垣など様々なバリエーションがあることから城郭の博物館と言われる
・鳥取城は久松山の山頂に本丸を持つ城
→山頂からの景色は絶景だった
・吉川経家は久松山を「日本にかくれなく名山」と称え、鳥取城は防御に優れた素晴らしい名城

第一次鳥取城の戦い
海から秀長軍、南から秀吉軍、西から南条軍と3方から鳥取城を攻め、城主の山名豊国は家臣の反対を押し切り秀吉に降伏しました。

わずか一月たらずで鳥取城を手に入れた
         ↓
南条氏が毛利軍に攻められ孤立、因幡各地で反織田一揆が勃発、秀吉に組した山名が家臣に追放され、再び毛利方の手に渡る
         ↓ 
追放された山名豊国に代わり毛利から吉川経家が派遣された

カリスマがいない毛利勢と仕上げの段階に来ていた織田家
<毛利家>
・毛利元就が亡くなり、代替わりの時期だった
・中国地方を取りまとめる旗頭という存在でありカリスマがないとまとめるのが難しい
<織田家>
・嫡男信忠に引き継ぐため、東夷西戎を打って天下を安らかにして代替わりをしようという仕上げの時期だった

第二次鳥取城の戦い
秀吉は鳥取城の近くに太閤ヶ平たいこうがなる(本陣山)を築いた
秀長や黒田官兵衛など名だたる武将を鳥取城の周囲に配置した
付城郡を土塁と堀でつなぎ鳥取城を包囲

千田先生、太閤ヶ平たいこうがなるに行く!
太閤ヶ平はとても広く周りは高く気づかれた特別な本陣だった
櫓が二か所あったのに加え、天守台もあったのではないかと千田先生は推測
毛利と織田の決戦になった時、信長が鳥取で入場する御座所として建てた特別な陣城ではないか
・秀吉が手紙で「御座所」の普請をしているとある
・秀吉は東伯耆(鳥取より西)へ攻めるつもりだったという資料がある
→秀吉が伯耆に攻め入ることで、毛利輝元を鳥取に引きずり出して、機内から織田本陣が出陣して戦うつもりだったと推測

<専門家がイメージした秀吉の戦術>
秀吉は鳥取城を包囲した後、西に進軍して吉川元春と激突、毛利輝元と小早川隆景が鳥取城の後詰めで出てきたところへ信長本隊が太閤ヶ平へ出陣、決戦となる

毛利のエリアは山地が多くて戦いにくい

秀吉に訪れた選択の時
秀吉の西への侵攻は毛利方の反撃に合い3度も敗れ、進軍は阻止された
毛利方の城は織田方が築いた城と変わりはなく、秀吉でも攻め落とすのは難しかった
【選択一】一大決戦の計画を進める→成功すれば大きな手柄になる
【選択二】計画を諦め城攻めに専念する→進軍するには時間がかかる

秀吉の選択【選択二】計画を諦め城攻めに専念する
進軍できなかったことで、毛利本陣は動かず決戦の計画は頓挫した
鳥取城内で餓死者が出ていた頃、秀吉軍も同じく兵糧不足に悩まされていた
→兵糧が先に尽きた吉川経家は切腹し、城兵の命を助けた
→結果的に鳥取城を落としたことで、毛利方の国衆も降伏し、因幡平定をすることができた

信長にまさかの出来事が起こる
・その後備中高松城の水攻めを敢行し、毛利本隊を戦場に引きずり出すことに成功
・出陣のため山陽方面に向かうため京に滞在していた信長に本能寺の変が起こった
・秀吉が画策した毛利と織田の一大決戦は幻と化した

★★★★★★★★★★★★
決戦を避けた毛利の戦い方にも一理あり、信長亡き後秀吉と和睦し、江戸時代以降も生き延びました。
時間を味方をした生き方だったと磯田さんは話していたことに、ちょっと感心しました。
後手後手でも引き延ばして変化を待つという選択もアリなんですね。

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