2023年7月1日(土)の「ブラタモリ」は「木曽三川~暴れ川VS.人間 激闘の歴史とは?~」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。
スタートはすごい大雨でちょっと今日は大変なことになりそうです・・・
しかしあれだけどしゃぶりだった天気が午後?でしょうか、どこからか止んで日差しも戻っていい天気になりました。タモリさんも「なんだこりゃ」とつぶやいていました。
まあ、今日は地形を見る回だったのでよかったですね!
今日のタモテバコ:暴れ川VS.人間 激闘の歴史とは?
今回の案内人
・東京大学教授(自然環境学)須貝俊彦さん ※関ケ原の回に続いて2回目の登場
・海津市歴史民俗資料館 学芸員 水谷容子さん
今回のルート
①木曽三川公園
➁治水神社
➂臥龍山行基寺(高須藩松平家菩提寺)
④千代保稲荷神社
⑤公園の滑り台の上
⑥千代保稲荷神社の南側(早川家邸宅)
⑦輪中中心部
木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川の一級河川)
・現在はそれぞれ1本づつ流れている
・江戸時代はお互いが絡み合う複雑に流れる川だった
→このエリアは洪水がよく起こった
江戸時代最大の暴れ川との激闘とは?
木曽三川は高さの違う場所を流れる川
・東から西に低い(木曽川→長良川→揖斐川の順)
・かつては木曽川と長良川は合流し、揖斐川に流れ込んでいた
→増水すると低い揖斐川に水が流れ込み大氾濫をおこした
・幕府の命をうけた薩摩藩によって木曽三川下流域の治水工事が行われた
→難工事に流行り病も発生し、約90人もの犠牲者を出した(治水神社に慰霊碑がある)
3本の暴れ川が集まる理由とは?
・養老山地の成り立ちが関係している
・養老山地は主に砂岩など堆積岩が隆起してできた山
堆積岩 海の底に堆積した砂や泥などが長い年月をかけ固まってできた岩石
【番外編】行基寺はすてきな庭がある趣味のいいお寺
タモリさん、堆積岩がよく見える場所として訪れた行基寺を褒めまくっています。
泥岩と砂岩がそのまま生かされた石垣、滝をつくり、その前面には苔でシンプルにして石垣の素晴らしさを際立たせる造りになっていました。
濃尾平野は西に向かって低くなっている(濃尾傾動運動)
・揖斐川と養老山地の間にある養老断層がポイント
・養老断層は力が加わると、片側が隆起(養老山地)、片側が沈降(濃尾平野)する逆断層
・濃尾平野の沈み込みが早い(2000メートル沈み込んだ)ので、西側が低くなる
→断層の働きが暴れ川を集め、洪水常襲地帯になった
暴れ川地帯で人はどんな場所に住み始めた?
千代保稲荷神社 (通称おちょぼさん)の付近にある須脇山(標高8メートル)あたりが一番高い場所
<どのようにして高い場所が出来たか>
①かつてはこのエリアのそばを木曽川が流れ、氾濫すると大量の砂が堆積
➁自然堤防という高まりができる
➂地域特有の風が砂を巻き上げ、高さ8メートルの砂丘が生まれた(河畔砂丘)
【いくつかの条件がそろわないと生まれない非常に珍しい地形】←日本で3か所しかない
→小高い場所に人々が住み、低地に水田を作った
(たびたび川が氾濫していたので米作りに適した肥沃な土地になった)
低地の水田をどう守ったか?
・輪中堤を築いた(集落全体を堤防で輪のように囲った)
・かつて木曽三川には80もの輪中があった
(江戸時代人口増加に伴い米の需要が増し、他エリアの豪商らがこの地で新田開発を行った)
・輪中のリーダーであった豪商の家は蔵を高くし、小作人の分の米を備蓄、家に避難場所も準備
・輪中の中の水を外へ流す排水路と門樋があった
門樋 江戸時代から明治時代排水路の出口に設けられた
門は観音開きで外側にしか開かない(逆流しない)
排水したいときは門を開け、周りの水位が高いときは扉を閉める
すると川の下に土砂が溜まり水位が上がり、門樋は開けることができず輪中の中の排水ができなくなった
→輪中の中で土を掘って高い水田を作り(堀田)稲作を行った
(面積を半分にしてでも米を作る)
現在は排水設備が劇的によくなり、水田を広げることができるようになった
→人々が暴れ川との激闘の末に勝ち取った風景
今日のタモリさんの衣装
・紺色のコート
・明るいグリーンのチェックのシャツ
・グリーンのカーディガン
・グレーのパンツ
・ブルーのスニーカー
今日のランチ:アナゴの天ぷらでしょうか、エビフライに煮魚にご飯に、定食のようでした。
★★★★★★★★★★
今回はすごく地形の勉強ができました。濃尾平野が西側に低くなっているとは知らず、またそのスピードた早いということで、かなりびっくりしました。
冒頭あまりの雨に中止したほうがいいんじゃと思うぐらいでしたが、最後にはスッキリ晴れてよかったです。
ブラタモリ 毎週土曜夜7時30分~ NHK総合
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