2023年7月19日(水)の「英雄たちの選択」は
「戦国パイレーツ 里見一族の野望」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。
里見という名前は番組でご指摘の通り、
「南総里見八犬伝」でしか知りません。
江戸時代の大ベストセラーである「南総里見八犬伝」で
八犬伝の主君として登場するのが里見一族だったそうです。
近年は研究が進んだということで、磯田道史さんがやりたいと言って
このネタになったようです。
今回のゲスト
敬愛大学特任教授 瀧川恒昭さん(歴史家)
明治大学教授 飯田泰之さん(経済学者)
東日本国際大学特任教授 中野信子さん(脳科学者)
江戸湾で海賊を率いた海の戦国大名
里見義尭(1504~1574)、息子の里見義弘(1525~1578)
・尭の字は中国史に登場する理想の君主「尭」であり、
息子義弘に最初につけた名前義舜は尭の後を継いだ「舜」の文字が入っている
・関東には北条、今川、武田、山内上杉、足利(古河公方)、
宇都宮、佐竹、千葉がいた
・本拠地は房総半島の先端、安房国
・里見氏の先祖は里見義成(八幡太郎 源義家の玄孫)
・家紋は二つ引き両(将軍足利家と同じ)
・安房国は山地で耕作面積がとれず、経済力の源である農作物は限られる
・海上を利用する物流が主であったため、江戸湾を監視し、
交通料を取ることで石高を補った
→江戸湾の支配で対立した北条氏と争う
熾烈を極めた北条氏との争い
・海上勢力を掌握し戦国武将の力を高めようとする
1538年第1次国府台合戦で北条氏に敗北
・当時飢饉が毎年のように続き領民は疲弊しており、
義尭は復興に力を尽くした
1556年久留里城を北条氏に包囲され、上杉謙信に助けを求め
事なきを得た
1563年北条氏康が武田信玄と組み、上野に進軍
関東管領の上杉謙信はそれを止めるために進軍し
里見氏にも出陣を要請、矢のような催促に結局出陣し、大敗した
1567年三船山の戦いで北条氏に大勝し反転攻勢に出たが・・・
<上杉謙信が北条氏との和睦を提案される>
北条が武田との同盟を解消し、謙信と同盟を結んだため
<義尭・義弘親子に選択の時が迫る>
【選択1】謙信の和睦提案を受け入れる
【選択2】謙信の和睦提案を拒否する
専門家の選択・・・選択1→磯田先生と瀧川先生
選択2→飯田先生と中野先生
<義尭・義弘親子に選択は【選択2】>
「里見太郎殿と名字書き越し候のこと口惜し」
里見太郎呼ばわりとは甚だ遺憾である
→当時宛名で太郎と呼ぶのは無礼なこと、
里見を見下す謙信の態度を拒絶した
・武田信玄と手を組み1571年に北条方へ攻め込み成果を上げた
・信玄がいなくなると武田の力が衰え、北条氏に圧迫されるようになった
・義尭死後、義弘は北条氏の和睦を受け入れた
1588年海賊禁止令(豊臣秀吉)が出て活動の場を失う
1590年北条氏滅亡
1614年伯耆国倉吉へ転封
1622年改易(当主死亡により)
地元の人々の記憶に長く残り、里見氏の軍記物がたくさん残された
里見氏がいかに勇ましいかということを書き残した
語り継がれた里見氏の伝説をもとに「南総里見八犬伝」を曲亭馬琴が書いた
★★★★★★★★★★★★★★★
専門家の先生は口をそろえて時代と共に価値観が変わっていく中で、
里見氏は変わらなかったと言っていました。
しかし結果的にその姿勢が人々の心に残り、
言い伝えられて「南総里見八犬伝」へつながったのだと指摘していました。
確かに関ケ原以降の里見氏の様子を見ると、切なかったです。
しかし飯田先生の言うように、
後世これだけ愛されるならその生き方は悪くなかった
という意見にちょっと救われました。
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