2022年11月29日(火)の「先人たちの底力 知恵泉」は「クライシス!日本”元寇”北条時宗の光と影」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。
今回は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の鎌倉幕府二代執権の北条義時から60年後、八代執権北条時宗の知恵泉です。
時宗の時代に起こった大事件は元寇です。
モンゴル帝国5代皇帝フビライ・ハンが送った大軍を迎え撃ち、撃退しました。
しかし、鎌倉幕府崩壊につながるひずみを生みました。
時宗は名君か、暴君か?
ゲスト
坂東彌十郎さん(歌舞伎俳優)
トラウデン直美さん(モデル)
明治大学教授 清水克行さん
前回の北条泰時の時と同じメンバーですね。
これは2本続けて撮った感じ?
知恵その一、強気に出るには地固めをせよ
モンゴル帝国5代皇帝フビライ・ハンは6年間で3回国書を送ってくるが、服属せよという内容に時宗は一度も返事をしなかった。
・時宗は当時世界最大の大帝国であったモンゴルの動向を事前に察知していた?
→鎌倉には大陸からきていた僧から情報は得ていたと考えられる
・国書を無視し時間稼ぎをしながら対策を練っていたと考えられる
→九州沿岸の警固(御家人を博多に集約)
→各地の田畑と領主を調査(調達できる食料と兵士の見通しをたてた)
→貴族や寺社保有の土地と武士の数を調査
御家人しかできない指揮を御家人ではない武士も指揮して警固にあたらせる
幕府の原則を全く変えてしまうような決断
文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と二度のモンゴル襲来を跳ね返した
貴族や寺院も巻き込みオールジャパンで防備を固めた
→早くから情報を集め対策を講じていたからこそできた強気の態度だった
当時は西日本は朝廷の力が強く、京都と鎌倉という2つの中心を持っている
時宗が京都を超えて九州に指示を出したのはかなりの越権行為
知恵その二、トップダウンは万能薬に非ず
文永の役(1274年)から弘安の役(1281年)の間の7年にしたこと
・警固の強化を図る
御家人に加え荘園の武士も動員して『元寇防塁』を築いた
なぜこのようなトップダウンが可能になったのか
・北条家『得宗』が政治を独占できるよう得宗専制を強化した
→自分のもとへ権力を集めた
・連署(執権のサポート役)を廃止
・評定衆のメンバーを独断で決定(合議制は形骸化)
・寄合(側近とのみ行う私的な会議)で政治を行う
・恩賞も時宗の裁量で決定
弘安の役の後も、3度目の襲来があると考え警固の手を緩めなかった
→3年後、時宗は急死
<時宗の死後>
・御家人同士の争いが増え、出費がかさんだことで生活が貧窮する
・御家人は不満を募らせ北条一族による政権が揺らぎ始める
自分のもとへ権力を集中しすぎた結果、武士の不満をうむことになり、鎌倉幕府の終わりの始まりとなってしまった
★★★★★★★★★★★★★★
弘安の役の後も警戒していたと聞いて、やっぱりそうだったのかと思いました。
フビライ・ハンも諦めていなかったと聞いた事があるので、警戒していて正しかったとは思いますが、確かにいつ来るか分からない事に対して備えるのは大変だったと思います。
権力を集中させすぎたことが、アダとなってしまうとは政治は難しいものですね。
(番外編)元寇で襲来した船が海底にいる!
長崎県の松浦市から700年前に元寇で襲来した船のいかりの一部が引き上げられました。今後、海底に残る船本体の引き上げも計画しているそうです。
先人先人たちの底力 知恵泉 毎週火曜夜10時~ Eテレ
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