2022年11月12日(土)の「ブラタモリ」は「善光寺~人はなぜ多くの人を引き付ける?~」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。
タモリさんはかつて一度だけ善光寺に来た事があるそうです。
スタートはあいにくの雨で傘をさしていて寒そうに見えますが、この後天気はどうなってしまうんでしょうか?
今回のタモテバコ 善光寺はなぜ多くの人を引きつける?
今回の案内人
善光寺尊勝院 栁澤 正志さん
善光寺淵之坊 若麻績 享則さん
長野県立歴史館 特別館長 笹本正治さん
戸隠地質化石博物館 田辺智隆さん
今回のルート
①善光寺本堂
➁善光寺仁王門
➂水内大社
④善光寺仁王門
善光寺最大の行事の「御開帳」
善光寺の最大の行事である御開帳は数えで7年に一度、3か月間開催されます。
この期間だけ見られる仏像をみるためです。
本堂前には前立本尊という回向柱が立ち、綱で仏像とつながっているので、柱に触れるだけでご利益があるそうです。
善光寺とはどんなお寺?
★善光寺は外陣と呼ばれる玄関部分が本堂の三分の一を占めていて、あまりそのようなお寺はない。
→多くの人を受け入れる庶民のための寺
★善光寺のご本尊は龍の幕の後ろにあり、決して目にできない絶対秘仏
→御開帳で目にできるのはご本尊と同じ前立本尊(重要文化財)でご本尊の分身であり、回向柱とつながっている
★善光寺を創建した人物、本田善光は庶民(ちゃんと像が祀られています)
→庶民が作った庶民のための寺
善光寺が世に知れ渡ったきっかけとは?
善光寺の始まりを物語る善光寺縁起(淵之坊所有)の絵巻物
平安時代以降、こうした絵巻物を持った人々が善光寺の始まりを説いて各地を回っていた
絵巻物は色鮮やかなイラストに文章が入っていて、4本ある絵巻物は右下の絵から始まる(座って始まりを説いていたから)
善光寺の始まりの物語である善光寺縁起
・インドであまねく人々を救う存在として阿弥陀如来が現世に姿を現す
・如来は仏像の姿になり次に救うべき土地があると西暦552年日本に渡る
・日本に最初に伝わった仏像とされる
・天皇の前でどうすべきか議論の末、外国からきた仏像は難波の堀江に捨てられてしまう(疫病はそういう仏像があるからなんだという理屈)
・その後救い出されるものの、今度は壊そうとするがなんともならないので、また難波の堀江に捨てられる
・聖徳太子が難波の堀江で自分が祀りたいとお願いするも、あなたではないと言わんばかりに自ら湖に姿を消した
・本田善光の背中に飛び乗り、七日七晩、昼は善光が如来を背負い、夜は如来が善光を背負って信州の善光の家に落ち着く
・善光の息子、善佐が亡くなり地獄へ落ちるも、皇極天皇と出会い如来の導きで二人は現世に戻る
・感謝の意もあり皇極天皇は如来のいる善光の家を寺にするように特命を下した
想像のはるか上を行く展開でした💦
→この物語を語り伝えることで善光寺の名が世に知れた
善光寺を世に広めた重要な歴史
★第二回川中島の戦い
上杉謙信が水内大社に布陣(善光寺東側)した
武田信玄は善光寺を挟んだ反対側に布陣した
<この場所であった理由>
善光寺を保護した人に源頼朝がいた
→善光寺を保護すると自分も頼朝公のように政権を握れるという発想
→善光寺の支配を狙う(武田も上杉も同じ発想)
<にらみ合いの後和解するが>
謙信は分身仏(ご本尊を拝むための身代わりの仏像)を上越に持ち帰る
武田は本尊を甲府に持ち帰る
その後織田信長(岐阜)→尾張清州→徳川家康(浜松)→豊臣秀吉(京都)→長野と所有者が変わる
→有名武将の間を渡り歩いたことで全国に名が知れ渡る
人が集まる奇跡の地形とは?
★善光寺は二つの扇状地が重なった場所で断層も通っている
扇状地の高まりが断層でさらに隆起した場所にある
→水害を避けられる安定した土地
★台地の上で修理しやすい場所に街道が通っている(北国街道、中山道につづく道)
→地形をうまく活かした交通の要衝
街道を通じて様々な場所から店が出される(八幡屋磯五郎など)
善光寺最大のピンチとは?
江戸時代相次ぐ火事に見舞われ、本堂の移転を計画
→大規模な再建事業には莫大な資金がかかる
→資金集めのため「出開帳」分身仏を全国各地で公開
→再建資金と多くの人に名が知れ渡る
どんな人の願いも受け入れ、救いの存在になったことが多くの人を引きつけた
★★★★★★★★★★
途中から天気も持ち直してよかったですね。
エンディングでお腹がなってしまった野口アナがかわいかったです。
タモリさんが気づくぐらいしっかりなってましたね。
タモリさんの衣装
明るい空色のストライプのジャケット
ピンクのボタンダウンのシャツ
ジーパン
黒い革のスニーカー
タモリさんのランチ 写真はありませんでした・・・
ブラタモリ 毎週土曜夜7時半~ NHK総合
見逃した方はU-NEXTでどうぞ。今なら31日間無料体験。