英雄たちの選択 明暦の大火

英雄たちの選択 明暦の大火 テレビ

2022年11月16日(水)の「英雄たちの選択」「ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。

明暦の大火(1657年1月18日~20日)はただの大火事ということだけではなく、江戸幕府の考え方が変わる契機となった災害でした。

今回のゲスト
津田塾大学教授 哲学者 萱野稔人さん
成蹊大学民族学研究所研究員 日本近世都市史 小沢詠美子さん

一橋大学教授 日本史研究者 若尾政希さん

明暦の大火は江戸の都市部の6割を焼き尽くし、多くて10万人以上が亡くなったと言われる江戸時代最悪の火災でした。
当時の江戸の町は防災という意識が全くなく、またこの時代は人口が爆発的に増えた時でした。

今回は「むさしあぶみ」という浅井了意が書いた記録をもとに再現していました。
※むさしあぶみ・・・当時の世相や風俗を描いた浅井了意の作品。

1月18日(1日目)
・北西からの風が強くなってくる(江戸は雨が降らず乾燥した日々が続いていた)
午後2時 本郷の本妙寺で火災が発生(1か所目)
     神田川で水場にぶつかるも船を伝って対岸へ
     大名屋敷を焼き、町人がたくさん住む日本橋へ
     日本橋に町人が殺到
     浅草橋、霊岸島、八丁堀、木挽町に火の手が広がった
     →隅田川でたくさんの人が亡くなった
     火災旋風が発生したと考えられる(炎が竜巻のように回転)
1月19日(2日目)
本郷の本妙寺を火元とした火事は未明には収まった
午前11時 小石川の大番衆の与力の宿舎から出火(2か所目)
      水戸藩の屋敷など多くの大名屋敷が燃える
      江戸城天守が燃える
      江戸城本丸、二の丸が燃える
午後3時  家綱 西の丸へ移動
午後4時  麹町より出火(3か所目)
      外桜田から南の芝まで燃え広がる
1月20日(3日目)
朝にすべての火災が鎮火した

被災状況(江戸の町の60%が灰になった)
 大名屋敷160軒焼失
 旗本屋敷約810軒焼失
 町人地800町以上焼失
 死者10万2100人以上(ほとんどが町人)

被害が広がった原因
・町人を中心に人口が爆発的に増えていた反面、防災の意識が低かった
・車長持が道を塞いでしまった

車長持に貴重品を入れて逃げようとしたが、結果車長持が道に溢れ、避難経路を塞いでしまった
・江戸城を守るため隅田川に橋が架けられていなかった
・江戸の人口構成に問題

江戸は管理されていない独居男性が多く、京や大坂では住み込み奉公人の男性の比率が高く、主によって火の用心などの管理がなされていたという違いから火事の発生件数が江戸が突出して高かった
・火の粉が風に舞い、火事の範囲を広げた
→火の粉は火災の熱による上昇気流で舞い上がる
江戸城天守は黒く塗られた銅板で壁を覆い、銅の瓦を葺くことで防火対策が取られていたが、開いていた天守の窓から火の粉が入り込み、室内から炎上

当時の江戸幕府の体制
若い4代将軍徳川家綱(17)とそれを支える古参の幕閣と一世代若い保科たち
彦根藩 井伊直孝(68) 大坂の陣で井伊家の大将を務める
小浜藩 酒井忠勝(71)元大老 関ケ原の戦いで徳川秀忠と共に信州で戦う
川越藩 松平信綱(62)老中 島原の乱の総大将を務める
会津藩 保科正之(47)23万石の藩主 
     腹違いの兄である3代将軍家光から4代将軍家綱の後見役を託されていた

戦国の世を生きた重鎮たちと守勢を固める時代の保科たちと考え方に違いがある

江戸城が火災に見舞われたときの対応について
✖酒井と井伊の提案・・・江戸城の外へ避難
✖松平信綱の提案 ・・・上野の寛永寺への避難
〇保科と老中安部忠秋・・西の丸へ移動、そこが燃えたら本丸跡へ陣屋を立てる
<保科の意図>火事で城から逃げると幕府の権威に関わると考えた
・明暦の火災の6年前に幕府転覆未遂事件が起こる(由井正雪の乱)
・幕府への反発は大名への厳しい統制によるもの
(3代将軍までで改易された(取り潰された)大名は129、浪人が町にあふれた)

明暦の大火の後の幕府の救済策
粥施行(幕府の米蔵の米を出して、火災後3週間に渡り温かい粥を町人へ与えた)
被災者への資金援助(幕府の御金蔵より拠出)
→幕閣から猛反対が出るが、保科はこういう時に使うものだと説得した
 大名(10万石未満) 銀300貫~100貫 貸与
 幕臣         金725両~3両   給付
 町人         銀1万貫(総額)   給付
無縁寺回向院を建立 江戸の町中にあった遺体をこの地に供養
→本尊の阿弥陀如来の台座に亡くなった方の名前が刻まれている(身分分け隔てなく)

江戸城の再建が始まり天守の再建が始まる
・天守台(加賀の前田家が普請)
→瀬戸内海から運んだ御影石を使い、美しく石積みの技術を見せている

ここで保科に天守の再建について選択が迫る
一、天守再建を停止する
二、天守再建を続行する

<若尾さん>一を選択 まずは復興でそれが終わったら考える、次世代への課題
<萱野さん>二を選択 天守の再建は大名の普請に任せる、復興が経済を回す
<小沢さん>一を選択 火災都市において天守を作ることはリスク

保科は一、天守再建を停止するを選択
天守は遠くを見るだけのもので、今は江戸を復興することが優先されるべき
天守について当分の間普請を遅らせるべきだ(天守の再建は無期限の延期)
→江戸を火災に強い都市へと変える事にした

幕府が作った江戸の復興計画
・空き地や広小路を作り、延焼を防ぐための防火帯とした
・吹上御苑にいた御三家の上屋敷(水戸藩、紀州藩、尾張藩)を外堀近辺に移転
・未開の土地の麻布を武家に与える
・本郷や湯島にあった寺を発展途上の浅草に移転
・隅田川に両国橋を作る
・両国橋の先の本所地区をニュータウンとした
・大名火消しに加え定火消を創設 
 火の見櫓を持った火消屋敷に常駐し、火消し専門の役人が登場した

大名統制の在り方を見直す契機となる
・江戸の改造に際し、幕府は大名に移転地の希望を聞き、調整して割り当てを行う
武断政治から文治政治へと転換した

その後の江戸100万都市への布石となり、天守の再建は江戸幕府が終わるまで行われることはなかった

★★★★★★★★★★★★★★
専門家の話を聞いていると、明暦の大火を機に、力による支配から民を治める民政に移行した結果、天守の再建は永遠に後回しになったんだなと思いました。
保科正之は幕閣をきちんと説得し、それに同意した幕閣もすごいなと感心しました。
意外とワンチームだったんですね。

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