2022年1月4日(水)の「英雄たちの選択 選」は「家臣団分裂!若き家康・最大の試練~三河一向一揆の衝撃~」でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。
今年の大河ドラマ「どうする家康」と関連して、若き日の家康の選択についての回でした。初回放送は2022年7月13日です。
今回のゲスト
・平山優氏(歴史家)2023年大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を担当
・中野信子氏(脳科学者)
・千田嘉博氏(城郭考古学者)
安定の3人といったところでしょうか。
平山さんは「どうする家康」の時代考証を担当なんですね。
そうしたら今年は忙しそうですね。
家康にとっての桶狭間の戦いの意味
徳川家康(当時は松平元康)は今川家に人質として預かりの身となっており、1560年5月桶狭間の戦いが起こった時は、今川軍の先方として大高城まで進出していました。
その日の午後今川義元が打ち取られた一報が入り、総崩れになった今川軍の先方として敵に囲まれてしまうピンチに際し、家康は急ぎ故郷の岡崎城へ帰郷しました。
家康にとって桶狭間の戦いで今川義元が亡くなったことで、自由に動くことができるようになりました。
織田と和睦し三河統一を目指す
織田信長と組むことを選んだ家康は東三河の重要拠点牛久保城(牧野氏)を攻めました。
今川義元のあとを継いだ今川氏真は1万の大軍勢で出陣し、家康側の拠点の城を攻めますが、家康が3千の軍勢で救出に向かい、成功しました。
その後名前を元康から家康に改名しました。(『元』は今川義元からもらった)
第三の勢力一向宗との戦いが始まる
一向宗の『一向』とは一心に阿弥陀仏を念じること、浄土真宗本願寺派を指す呼び名です。死と隣り合わせの日常の中、人々は来世に救いを求めました。
西三河にも4つの拠点(上宮寺、本證寺、本宗寺、しょうまん寺)があり、それらの寺は城のように強固な造りになっていました。
また門徒には松平の家臣、今川の家臣、水野家の家臣、吉良家の家臣など武士も多くいました。
そんな一向宗の寺から家康の家臣は強引に兵糧米を取り立てたことがきっかけで対立しました。
一向宗には不入の権(基本的には税が免除、警察権が及ばない特権)があったのだが、今川との戦いが続いていた家康にとっては必要なことでした。
家臣も家康側と一向側と割れて三河一向一揆が起こる!
三河一向一揆については他の一向一揆と異なり、大坂本願寺から指令がきた形跡がなく、資料がほとんどないそうです。
戦いが始まると一揆側には家康の姿を見ると逃げ出す武士もおり、主君と信仰の間で揺れていたことがうかがえます。
最大の激戦となったのが小豆坂の戦いであり、これに家康は勝利しました。
すると一揆側から和議の申し入れがあり、その条件は命の保証と、不入の権の確認でした。家康は裏切った武士を許すかどうか選択を迫られます。
一、一揆勢を許す
二、一揆勢を許さない
家康の選択は一だが、その後にオチがあった
家康の選択はすべての条件を受け入れ一揆勢を許しました。
しかし一揆に参加した武士の多くは三河を離れました。
すると二か月後、宗旨を変えよと迫ります。
寺側は「前々のごとく」と起請文を交わしたと主張するも、家康は「前々ハ野原なれば前々のごとく野原にせよ」と応え、寺の道場などを破壊しました。
すると一向宗の僧侶は三河を離れました。
この戦いを乗り越えたことで、三河における家康優位の状況ができあがり、戦国大名、徳川家が成立した
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スタジオでも家康の策士ぶりが話題となりました。
磯田先生は家康が晩年「理を通す・筋を通すというよりは都合のいいように解決するのが政治」ということを発言していると話していました。
磯田先生は家康の解決方法があったから本多正信はじめ有能な家臣が死なずに済んだと言いました。
確かに、そう考えるとすごく大きいですよね。
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