ブラタモリ 汐留

ブラタモリ 汐留 テレビ

2023年4月1日(土)のブラタモリ汐留~汐留は江戸東京のフロンティア?~でした。
以下、まとめと感想と少しネタバレです。


今回のタモテバコとは?:汐留は江戸東京のフロンティア?
今回の案内人
東京スリバチ学会 皆川典久さん(#12仙台の回に出演)
松陰大学経営文化学部教授 小林克さん
東京都公園協会 北村葉子さん

今回のルート
①汐留駅東側
➁汐留駅から北東へ400メートルの場所
➂霞が関の近く
④汐留駅近く
⑤浜離宮恩賜庭園
⑥田町(大汐線の線路)

汐留はかつて国鉄汐留駅があった
・大正3年(1914年)に旧新橋駅が貨物専用となり、汐留駅に改称、昭和61年(1986年)に廃止
・現在高速道路がある場所は江戸時代には汐留川があり、汐留橋がかかっていた
→しかし現在地名に『汐留』という名はない

今回は汐留が江戸と東京の最前線(フロンティア)であることをぶらぶらしながら探ります。

汐留川の痕跡をたどると江戸時代の最前線が分かる?
<現在も残る汐留川の痕跡>
・柳の木(川端柳)
・新橋の名残(汐留川にかかる新橋の名残)
・川の跡地にホテルが建っている(細い敷地は奥行が必要ないホテルに都合がいい)
・霞が関近くの交差点が他より高くなっている(溜池と平地の境目)

江戸の町づくりの最前線!人々を潤した溜池
・江戸にはわずかな飲料水しかなかった
・もともとあった川をせき止めて溜池をつくり、人々の飲み水に使った
・溜池に海水が逆流するのを防ぐ潮止め→汐留
→汐留川にかかる橋に『汐留』の名が使われ、明治時代になると地名にもなった

江戸の町づくりの最前線!江戸の町を拡大する埋立地
・江戸時代は3つの大名屋敷(龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家、会津藩保科家)があり、海に面していた
・江戸時代大名らが住むために広大な土地が必要になる
・大名自ら湾岸開発をすすめた(幕府は権利は与えるが工事はしなかった)
・竹で作ったしがらみを地面に刺して土留めにした(潮の満ち引きでも埋め立てできる)
・柵のすき間を貝で埋めてできるだけ土が流れないように工夫した
→町を拡大するための埋め立ての最前線だったのが汐留

江戸の湾岸部の工夫!海水を取り組む潮入庭園
大名屋敷のもっと海側にできた浜離宮恩賜庭園は当時の最新の造園技法を取り入れた庭園だった
・敷地内に入って最初にあるのは浜御殿奉行の屋敷

浜御殿奉行 浜御殿の手入れなど指揮した役職で将軍から公園内に敷地を与えられる

・ようやく庭園の入り口に入ると道が狭まり期待感が膨らむ
・お茶屋やむくり(土塁で盛り上がっている場所)をつくり、少ししか庭園が見えない
・小高い場所になってようやく庭園全体が見渡せる
・庭園の中心に池が作られ、その周りをめぐるように作られている(回遊式庭園
・池は海水(潮入しおいり)という庭園技法を用いている
 潮の満ち引きで池は循環しきれいな状態が保たれる
 潮位が変わることで庭の印象も変わる
→庭園のフロンティアともいえる場所だった

役目を終えた大汐線が新たな路線へ!
元は汐留と大井ふ頭(東京貨物ターミナル)を結んでいた大汐線が東京と羽田空港新駅(羽田空港)を結ぶ羽田空港アクセス線になる
→汐留はこれからもフロンティアであり続ける

【番外編】汐留を走る高速道路の住所は無番地
汐留を走る高速道路は中央区銀座と港区新橋の境界にあるが、高速道路下に住所はなく、無番地、住所不定の地となっている
→高速道路の下はもともと川だったので住所はなかった、埋めたてられてもそのまま
・高架下には「銀座9」と表示、銀座は8丁目までしかなく事業者の意思か?
・「銀座9丁目は水の上」という歌があった

今回の衣装
ブルーのダッフルコート
チェックのシャツ
白いチノパン
薄いグレーのマフラー
濃紺の手袋

今回のランチ:そば?でしょうか。大きな器にお汁があるように見えますが、二人が箸であげているのは麺ではないのでなんだろう。と思っていたらもう一枚写真がありました。貝?でしょうか、よくわかりませんでした・・・

★★★★★★★★★★★★
最後の大汐線の線路に出たときはタモリさん、かなり嬉しそうでしたね。
今回は途中から風が強くて、二人ともマフラーを巻いて寒そうでした。
汐留のビル群が江戸時代の埋立地から始まり、今も新しい路線となる場所ということで確かに色んな役割を担う重要な場所でした。人工的に始まった場所というのも面白かったです。

ブラタモリ 毎週土曜夜7時半~ NHK総合

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